頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

僕の未来予想図はいつだってⅡにはならない

僕の頭の中には未来予想図を持つ自分と持たない自分がいる。

 

どうもこんにちは。

 

アンモナイトです。

 

皆さんお元気ですか?僕はお元気です。

 

今回は、はてなブログ特別お題キャンペーンのお題に沿って書いていこうと思います。

 

お題は「私の未来予想図」ですって。

 

僕は実際に「未来予想図」の実物をこの目で見たことがないので、未来予想図がどんなものなのかとか、どこで売っているのかとかは実は知らないんです。

 

大型の書店にでも行けば売っているんでしょうか?道路地図とかのコーナーに。

 

そんな話を親しい先輩に話したら、「お前、俺のことバカにしてる?」と聞き返されてしまいました。ごめんなさい先輩。してます。バカに。

 

冗談は置いておいて、「私の未来予想図」の話ですが、僕の頭の中ではいつも「なれるものになるから将来の夢とかいらない」ってい云うもう一人の僕と、「僕の夢はヴェネチアのゴンドリエーレになることだ!」と声高に叫ぶ、二人目の自分がせめぎあっています。

 

そもそも僕は、ほかの一般の人たちみたいに、いわゆる「小さいころからの夢」みたいなのがありませんでした。正確に言えば、あったにはあったのですが、小学校三年生の時に将来の夢、将来就きたい職業を持たなくなりました。

 

これにはちゃんと理由があって、小学三年生の時に母親に云われた言葉がきっかけにあります。

 

当時小学三年生だった私は、知り合いの方からいただいた青い鳥文庫の小説にすっかりハマっており、こんなステキな物語をかける人間になりたいと、小説家を目指そうとしていました。

 

ある日のこと、僕は母親に何気なく「将来は小説家になりたい」と云いました。すると母親はこんなことを僕に云ったのです。

 

「小説家は誰にでもなれるから、別の何かになってから小説を書いても遅くないよ」

 

僕は今まで、いわゆる「兼業」という概念がありませんでした。パンを売るにはパン屋になるしかないし、豆腐を売るには豆腐屋になるしかないし、小説を書くには小説家になるしかないと本気で思っていました。なので、僕にはその言葉が衝撃的過ぎて、しばらく言葉を失っていました(僕の記憶が正しければ)。

 

母親は続けて海堂尊先生森博嗣先生を例に出して、「お医者さんでも小説書いてる人もいるよ」「大学の先生でも小説書いている人いるよ」と教えてくれました。

 

具体例を挙げられて、当時の僕も「たしかに」と納得していました。今思い返せば僕の好きだった(今でも好き)「怪盗クイーン」を書いているはやみねかおる先生は小学校の先生でしたね。

 

そんなことがあったので、僕はその日を境に将来の夢、将来なりたい職業を心に抱かなくなりました。

 

つまり、僕は小説家だけが小説を書けるわけではなく、小説を書くことを本業にしていない人でも小説を書くことができると小三にして知っていたので将来の夢というものを持たなかったわけです。小説家以外になりたいものも特になかったし。

 

さらにこの考えは高校生になって強化されていきました。

 

というのも、高校何年だか忘れてしまいましたが、NHKでやっていた「スイッチ」という番組の清水ミチコさん石黒浩教授の対談で、石黒教授が「僕はなれるものになればいいと思ってます」という発言を聞いたことがきっかけです。

 

この発言にめちゃくちゃ感化された僕は、今まで持っていた「将来の夢を持たない」というスタンスを「なれるものになる」というスタンスにレベルアップさせたのです。

 

この考えはぶっちゃけ今でもあまり変わっていません。なれるもんになるし、いつかなれるもんになったとして小説を書くことをしないかといわれればそんなことはないだろうなと思っています。(その証拠に(?)今僕は大学の文芸サークルに所属して、小説をシコシコと書いています。)朝井リョウスタイルでもいいじゃん!と思っています。(朝井リョウさんは小説家になってからですが……)

 

でも、人間っていうのは不思議な生き物で、「自分はなれるものになる!」と思っていても、なりたいものが出来てしまう。そんな矛盾を抱えた悲しい生き物なんですね。

 

僕が今持つ未来予想図は「ヴェネチアでゴンドリエーレになること」です。

 

何をバカなことをと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、全く構いません。だって僕が一番「何をバカなことを言ってるんだ……」と思っているから。

 

なぜ僕がヴェネチアのゴンドリエーレになりたいと思ったかというと、『ARIA』という作品に、あまりに深く魅了されてしまったからです。

 

ARIA』とは、天野こずえ先生の漫画であり、アニメにもなっている作品です。その『ARIA』は、主人公の女の子が、火星の街で一人前のゴンドリエーレになるために頑張るというお話なのですが、僕はその世界にまるで魂が吸い込まれてしまったかのように、魅了されてしまったのです。高校一年生の時でした。

 

それからというものの、僕は今までの約五年間、「なれるものになる!」と思いつつも一貫して「ヴェネチアでゴンドリエーレになりたい。っていうか時間がかかってもなる!」と思っています。

 

動機だけを見ると、「こいつ、いつまで脳ミソ幼稚園児のままなんだ?」と思われるかもしれませんが、僕は「ヴェネチアでゴンドリエーレになる」ということは、これからの社会において、そこまで滑稽なことだとは考えません。

 

理由は二つあります。一つはゴンドリエーレって50年後も存在している職業っぽいからです。なぜそう考えるのかというと、そもそもヴェネチアという街自体が超長い歴史を持っていて、その中の一つにゴンドリエーレという存在が組み込まれているからです。つまり、「ヴェネチア沈没」みたいな大松右京とかいう名前の人が書いてそうな小説の状況にならない限り、なくなることはないのでは?と考えられます。なので僕はゴンドリエーレが50年後も、もしかしたら100年後も残っている職業のうちの一つだと思っています。50年もなくならない職業なんて、今後の社会においてはそうそうないんじゃないでしょうか?唯一この考えに問題があるとすれば「地球温暖化」による海面上昇です。海面上昇したら沈没してマジで終わる。ストップ!地球温暖化

 

二つ目は日本でゴンドリエーレになった人がいないからです。もし僕がゴンドリエーレになったら、日本人初のゴンドリエーレで、一億人に一人の存在になれるわけです。これってすごくないですか?藤原和博さんの「100万人に一人の存在になれ」という教えを、いきなり二桁分飛ばすことが出来るんですよ?ヤバくないですか……?

 

ゴンドリエーレになるには、昔ほど難しくなく、国籍の問題がなくなってきつつあるので(たしかそうだったはず)、ゴンドリエーレ養成所に入って、三か国語以上喋れるようになって、クソ難しい試験を突破して、フェラーリより高いゴンドラ本体とライセンスを取得すればなれるのです。

 

ちょ~簡単!

 

さらに、今のところ女性はなれないとされていますが、実際にドイツ人の女性は、学校に二年間通って、技術を習得して、今はドイツの旅行会社に勤めているという話もあります(2001年にそんな話があったと思う)。

 

僕は一応生物学上男なので(心も自分では男だと思う)、ハードルは昔に比べたら格段に低くなっています。

 

なので、今僕は必死に英語を勉強しています。

 

「いや、イタリア語とちゃうんかい!」とツッコミを入れたくなる気持ちはわかりますが、とりあえず英語が喋れないとゴンドリエーレどころか、なにかになるとしても何も務まらないので勘弁してください。

 

しかし!

 

しかしですよ。僕は10年間、「なれるものになる」という考えを持ち続けて生きてきました。だから、いまだに夜な夜な「僕はこのままゴンドリエーレになろうとしてるけど、果たしてそれでよいのだろうか」と思い、眠れ夜を過ごしているわけです。

 

最近では、「いっそのこと二つの考えを共存させないか?」と考えています。つまり、どちらか一方に無理やりかじを切るのではなくて、自分の中でうまくバランスを取ろうと、未来予想図を持ちたくない自分と持ちたい自分の両方を僕が手玉に取ろうとしているわけです。

 

もし僕が今後、うまく中庸の道を進むことが出来たら、きっと何年たっても自分の軸がぶれることはないと思います。多少のアップデートはあるかもしれませんけど、ずっとバージョン1.0をキープしたまま。そしたらもっと生きやすくなるかもしれない。そんな楽観的希望があります。

 

バージョンが1.0から2.0にならないことが、良いことなのか悪いことなのかは今はわかりません。きっと死んでからわかるんだと思います。

 

死んでわかったら良いよね。

POLA×はてなブログ特別お題キャンペーン #私の未来予想図

バナー
Sponsored by POLA