頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

ここ最近の「読書はコスパよい」に関する言説に思うこと

最近なぜか「読書ってコスパいいよね」と「読書をコスパが良いからという理由でするのはいかがなものか」みたいな話が流れてくる。ツイッターのTL上で。

たぶんその流れはこのツイートからだと思うんですけど、この『新R25』のツイートを見る限り、

 

 

そんなにおかしいことは言ってないと思う。特に武田双雲のやつとか。本って基本的に安いよな。この前買った片桐洋一の『伊勢物語全読解』は一万五千円したけど。まあこれも値段だけ見れば高いけど、内容がものっそい濃いので相対的に安いとは思う。

 

上のツイートした人は、

 

と思っているらしいんだけど、ここから推測するに、読書という行為に対して高尚性を抱いているんだろうなというのがうかがえる。まあそれはどうでもいいんだけど、僕が主張したいのは、「コスパ高いから読書する」人たちを何も考えずに批判してしまうと、「コスパ高いから読書する」人たちが買っていたような本(自己啓発・うっすいビジネス書)が売れなくなって、自分の発刊部数では黒字にできないけれど素晴らしい出版物にまでしわ寄せがいってしまうのではないかというものである。

 

基本的に出版社というのは、ばかみてーに売れる本と、それが出した利益で出来上がった本を出版しているらしい(『ジャンプ』のすごさが語られるときにこのシステムの話によく触れられているし、具体的には『生業としての小説家戦略専業作家として一生食っていくための「稼げる」マニュアル54』にあったので気になる人は読んでみて)。

 

 

www.sankei.com

 

この産経新聞の記事みたいに、「コスパ高いから読書する」人たちが読むのであろう自己啓発本は売れ行きが好調っぽい。そのため、ここからの利益で世に出た、それほど売れてないんだけどとても良い本もたくさんあると思う。だから、出版社の稼ぎ頭である自己啓発本を読むであろう「コスパ高いから読書する」人たちへの安易な批判は、「コスパ高いから読書する」人ではない人たちへの不利益につながるんじゃないだろうか。とか思ったりするのです。

 

それはそれとして、僕も「コスパ高いから読書する」人たちの気が知れないタイプではあるので、「コスパ高いから読書する」人ではない人たちの言いたいこともわかる。

 

ただ、読書界隈(そんなものがあるのかは知らないが)は非常に複雑で、ある時期には「読書する人を増やしたい」みたいな言説が流行って、ある時期には今回みたいに、どんな理由からであれ読書している人たちを馬鹿にするような言説が流行るのだから、一流サーファーでもこの大海の波を乗りこなすのは難しいんじゃなかろうかと思う。

 

で、「読書は娯楽としてコストパフォーマンスが高い」というのは、果たして本当だろうかという疑問もある。馬鹿たけえ本は死ぬほどあるし、めちゃくちゃ長いシリーズものもあるし、本が好きな人は馬鹿みたいに本を買うから、結果的に高くつくんじゃね?そもそも趣味としての読書であれば、金に糸目をつけない方が趣味を満喫してる感があるし、本は蒐集するものとしても存在しうるから、もろもろひっくるめて考えると、アウトドア系の趣味とは違って初期費用が掛からないというだけで、読書の、娯楽としてのコスパはそれほど高くないんじゃないか?と思う。

 

図書館の本を含めればコスパは高くなるだろうが、図書館の本は市民の財産であり、市民の税金で賄われているから、我々のお金が全く関与していないわけではないため、厳密にフリーであるともいえない気がする。

 

つーかそもそもコスパ、コストパフォーマンスって何?みんな何として認識しているんだ?

 

本当にコスパのいい趣味は、365日毎日裸で海を八時間くらい泳いで最終的に人魚に仲間だと思われて海底の国に行くことだよ。

そういえばブログがあったことを思い出した。

題名の通り、そういえばブログがあったということを思い出した。このブログを立ち上げてからは早いものでもう丸二年以上の月日が経っている。

 

僕も気が付けば大学生ではなくなっているし、自分の頭の中身が知りたいと思っていたのに、気づけば頭の中に入ってるものが少なくなってきている気がする。もしかしたら頭の中に何か入っていたと思っていたことがそもそも間違いだったのかもしれないけど。

 

まあ、なんにせよ、このブログがせっかくあるんだから、もう少し文章を書いた方が良いかもしれないなと思った。

 

ただ、何を描こうか非常に悩ましい。別に取り留めのない内容でも良いんだろうけど、そのとりとめのなさにでさえちょっとしたセンスを見せたいじゃん?

 

未だに思春期バリバリな発言をしていて我ながら笑えるが、いかんせん自意識というものはあっちゃうんだなコレが。

 

今思い出したけど、最近前々本を読んでない。特に小説。なんかすごいもったいない気がする。もちろん、マルクス・ガブリエルの本とかを読んでいるのもすごく良いとは思うし楽しいんだけど、小説を読む楽しさは、それはそれとして存在しているから、なんかそれを味わえないのはもったいないと思ってしまう。人生において。まあ、人生においてという発言を出来るほど人生を積み重ねているかどうかは疑問ではあるが。

 

だから、今後はちょくちょく小説を読んで、その小説についての雑多な感想をあげていこうかななんて思っていたりする。もちろん、小説以外に読んだ本だったり短歌集だったり詩集だったりの感想も上げていこうかねと思ってる。

 

本だけじゃなく、映画とかの感想を書くのも良いかもね。

 

何にせよ、せっかく昔の僕がブログを書いていたのだから、その遺産を今の僕がしっかり引き継いで上げないともったいないよね、と思った。

 

テキトーに頑張ります。

今年(2021年)の四月以降に公開予定の映画の予告編の音楽がすごく良い(あと、ARIA観に行ったよ)

こんにちは。アンモナイトです。久しぶりに映画館に行ったついでに、久しぶりにブログでも書こうかと思います。

 

僕は今日、巷で噂の『シンエヴァンゲリオン』ではなく、『ARIA The CREPUSUCOL』を観に行きました。前からずっと観たかったやつです。本当は公開日の金曜日に行く予定だったのですが都合がつかず、今日観に行きました。

 

映画の冒頭、OP直前のアリスちゃんの姿でもう涙が出そうになりました。アリスちゃんがプリマになってしばらくたっているので、ミドルスクールのころと比べて、姿も雰囲気もぐっと大人っぽくなっていました。特に顔立ちが変化しており、ミドルスクールのころの、少しだけどやわらかさも持っているという印象から、シャープで大人びた印象になっていました。骨から成長していることがわかる描写はさすがだと思います。そんなアリスちゃんが、まだ子供っぽさを残した笑顔でOPが始まるのですが、あの頃の子供っぽさを見せられて、大人っぽくなったなあという気持ちから急に、でもまだ彼女は大人になりかけなんだということを見せられて、ぐっと胸にこみあげてきたのです。

 

そして、そこからはARIAワールド全開ですごく楽しめました。アテナさんがあの時そんなことを思っていたのか、とか、アリスちゃんは今そんなことを思っているのか、とか、アーニャも悩んでるんだんぁ、とか。とにかく最高でした。

 

とまあ、ARIAの感想は一旦ここで止めておいて。

 

映画が始まる前に、放映予定の映画の予告が流れる時間がありますよね。

 

そこで映画の予告を観るのが好きなのですが、今回それらの予告編を観ていて思ったのは、めちゃくちゃ音楽良くないか?ということです。

 

具体例を出していきましょう。

 

まずはじめに、『劇場版名探偵コナン 緋色の弾丸』です。椎名林檎が歌ってました。曲名は知りません。最初、渋めのイントロから始まって、椎名林檎の声が聞こえた時、思わずカッコいい~と叫びそうになりました。ものすごく壮大な感じだったので、今回のコナン面白そうだなと思いました。

 

次に、ジブリの『アーヤと魔女』です。これは、企画が宮崎駿で、監督が宮崎駿の息子である宮崎吾郎だそうです。宮崎吾郎といえば、『ゲド戦記』『コクリコ坂から』が有名な監督ですが、『ゲド戦記』は酷評され、『コクリコ坂から』の評価もいまいちです。しかし、僕は常々思っているのです。『ゲド戦記』や『コクリコ坂から』で、手嶌葵を起用したアンタは偉い!と。

ゲド戦記』も『コクリコ坂から』も、テーマソングや全体的なサウンドが僕好みなんですよね。

そして、新作の『アーヤと魔女』も、主題歌が良い。シェリナ・ムナフという方が歌っているらしいです。耳に入ってきて、「この曲良いなぁ」と思っていたら監督が宮崎吾郎だったので、並々ならぬ縁を感じました。

 

次に、『サイダーのように言葉が湧き上がる』です。これは、松竹のオリジナル劇場アニメらしいです。コミュ障でいつもヘッドホンを付けている男の子と、歯の矯正治療中で、そのことがコンプレックスのためにいつもマスクを付けている女の子が主人公っぽいです。僕は小学校の時に好きだった女の子が矯正治療をしていたので、矯正器具を付けている女の子が性癖にぶっささります。なので、たぶんこの映画は観に行くでしょう。そして、この映画の予告にも使われていて主題歌の、『サイダーのように言葉が湧き上がる』は、never young beachというバンドが歌っているようです。このバンドを知らなかったのですが、どこかJ-ROCKの王である(と勝手に思っている)、くるりっぽさがあったので耳に残りました。恋愛ものアニメ映画にしては、低めの声での男性ボーカルなので、渋さもあります。だけど、絶妙にマッチしている感が予告で伝わってきてとてもよかったです。

 

他にも、『竜とそばかすの姫』では予告自体が短いため主題歌などもありませんでしたが、細田作品臭がむんむんしたので笑いました。

 

とまあこんなふうに、予告編の音楽がすごく良かったなぁと思いました。やはり、映画館には行くべきですね。

【書評】『1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法』は半分読めば大丈夫

『1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法』という本があります。

 

 

この本は最初の1・2章だけ読めばあとは流し読みで大丈夫です、という話です。

 

理由は主に2つ。

 

一つ目は同じ著者の『そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか』に書かれていることと、よく見ると被ってないこともあるが結構被っているから。ちなみに、『そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか』も半分くらい読んでいれば大丈夫です。はい。(起業したい人は真面目に読んでも良いかも)

 

二つ目は、3章だけやたら薄味だから。この本は3章立てになっているのですが、最終章である3章の内容は、今後の未来を予想してみました的なものを踏まえてそこから逆算して今後必要となるモノを紹介する形になっています。これが、全部どっかで聞いたことある内容になっているのです。何を根拠にしているかわからない精神病に対する持論や、10年くらい前に岡田斗司夫が書いていた評価経済社会の話とか、10年くらい前に岡田斗司夫内田樹が対談したコミュニティ論とかetcetc...

とにかく、その前まで書かれていた自分の持っている考えること・思考法に関するものとは、人(にん)の入り方が違うのです(熱の入り方が違うとは微妙に違う)。

大体において、「2020年から先の世界を生き抜く方法を考える」という3章の題の1節目が「アフターオリンピックの世界」な時点でm9(^Д^)プゲラ

この3章からわかるのは、どれだけ思考しても今の現状が起こるなんてわからなかっただろうし、思考による未来予測は超ミクロな場面かある枠組みの超マクロなことしかわからないのであてにならないということ(現状が何よりの証拠)。ただ、それらが有用ではないということではないのは理解しているし、基本的にはそれらで事足りることも何となくわかる。

 

まあ、何というか一章二章は人(にん)が入っている良い内容だと思ったので、そこまで読んでおけばこの本は役割を果たしたと言えるだろうと思います。

 

Twitterで流行ってる「例の漫画」って、何?

だいたいどの漫画のことを指しているのか見当は付くけど、なんで「例の漫画」と呼んでいるのか見当がさっぱりつかない。

 

もしかして、「例の漫画」という言葉を使っているTwitter民は自分以外の全員が「例の漫画」を共通認識として持っていると思っているのだろうか。それとも、知ってる人に話が通じれば良いや、というような諦念の表れなのだろうか。

 

前者が多い場合は、Twitterでいさかいがなくなることはないし、後者が多い場合はTwitter上でこんなにいさかいが多いのはおかしいと思うんですけど、どうなんすかね。

 

自分が知っていることを相手も当たり前のように知っているだろうという感覚は、実感としてとてもよくわかるのですが、実際問題自分がある事柄について知っていて相手も知っているという状況は、空間が限定されない限り生じないと思います。この場合の限定的空間とは、電子情報通信学会とかコミケモバマス島とか西住しほを妄想で犯す会みたいな感じです(この空間ですら意見・主張・主義はバラバラだが、前提知識はある程度均一であるということが言いたかったと今気が付いた)。Twitterは複雑怪奇な現実世界と同じで限定的空間ではないので、自分が知っていることは相手も知っているだろうという甘い期待はしない方が自分の精神衛生上よろしいかと思います。

 

知っている人に話が通じれば良いや、というような態度も楽で良いですし、実際僕もそんな感じで日々Twitterやってます。今書いているブログもそう。例の漫画が何かを明確に示していない。だけど、何となくこれに違和感や嫌悪感を感じるのはなんでなんだろうな。わからん。イギリスやフランスの貴族っぽいから?

 

「例の漫画」と呼ぶことによって、自分のツイート履歴に例の漫画を載せないということを目指した人もいるのかもしれません。理由はそれぞれで、例えばただ単純に俺は他人のツイートはRTしないんじゃ!という方もいれば、例の漫画を拡散させたくないからな人もいるかもしれません。「例の漫画」という言葉をただ使いたいだけの人もいるでしょう。

 

内容がドイヒーだから拡散させたくない、拡散に加担したくないから「例の漫画」という言葉を使っている人は、逆効果だからやめたほうが良いと思います。

 

人間は隠されると探したくなる生き物なのです。カリギュラ効果というらしいです(日本固有の用語らしい)。僕は心理学って微妙にビミョーな感じがするのであれですが、一応根拠っぽいものを提示しておいた方が説得力あるかなって思ったので出してみました。

 

何が云いたかったかって言うと、特に何もないです。