頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

自分の「働きたくない」を分析すると、少しだけ前向きになれる

働きたくない。まともに働いた経験は今までの人生で一度もないから働くということがどういうことかわからないけど、とにかく働きたきたくない。

 

ここ最近マジで働きたくない気持ちがむくむくと湧き出してきているのを実感している。だけど、僕はふと思った。本当に僕は「働きたくない」のだろうか。

 

「働きたくない」という言葉は、どうもおおざっぱが過ぎる気がする。ただ「働きたくない」といっても、それは「マジで一歩も動きたくない。万年寝床万歳!」なのか、「誰かの下で働きたくはないけど、自分が上に立つなら考えてもイイかも」なのか、「バカみたいな長時間労働をしたくない」なのか、「ほんのちょっと生活に困らない位稼いで、アマプラで映画を観る人生が良い」なのかetcetec……

 

もしアナタが働きたくなくなったら、まずはそのことを考えなければいけないと思う。論理的に考えても。

 

「働きたくない」という言葉の裏には、このように様々な思想や思惑が広がっている。では、僕の言う「働きたくない」は、一体何なんだろうか。少し分析してみたいと思う。今回使う方法は、似非自動記述である。

 

働きたくない。働いたことが無いから働くことがわからない。働きたくないは言い換えれば今の生活スタイルを維持したいということかもしれない。今の生活スタイルは好きな時間に寝て好きな時間に起きて、たまにある大学の授業に遅れないようにに行って、図書館とかkindleUnlimitedの本とかマンガを読んで、ようつべ観て、アニメ観て、アマプラで映画観て、無料ゲームして、飯作って食って、寝て、というもの。これを維持したい。別に大学に行かなくても最悪良い。今僕は大学四年なので、卒業できればそれで良い。つまり、卒業した後、学生生活と同じ感じで生活していきたい。学生生活と同じような生活スタイルを維持することと働くことは相反することなんだろうか。フルタイムで働くことをすれば、それは相反することになるだろう。しかし、週に二、三回働くのはどうだろう。もしくは、月に五日間だけ働いてそれ以外働かないとかはどうなんだろう。それらは相反することなのだろうか……とかとか

 

ちょっと考えただけで色々出てきた。そして、今のところの結論としては、僕の言う「働きたくない」は、「今やってるバカみたいにバラ色な生活スタイルをこのまま維持し続けたい」であることがわかった。これがわかっただけでも大きな前進である。これがわかると、その欲求を実現するためにはどうしたらいいかという疑問が自然にわいてくる。ただやみくもに「働きたくない」と言っている状態よりもはるかに前進している。アームストロング船長が名言を残すレベルである。

 

次にやるべきことは「では、今の生活スタイルを維持するためには何を考えて実行しなければならないのだろうか」ということを、自分自身に具体的に提示してあげることである。

 

と、まあ、このように。ただ漠然と「働きたくない」と思っている状態からは、ずいぶん前向きになれた。

 

今「働きたくない」と思っている人は、ぜひ、その「働きたくない」がどんな種類のものなのか、その気持ちの背景にはどんな欲求が隠されているかを分析してみてください。少しは前向きになれますから。

 

今は誰もが「責任を負わない時代・内省しない時代」だ

安部さんが辞めたことに対する様々な意見。

 

漫画やアニメの表現に対する様々な意見。

 

働く人々に対する様々な意見。

 

世の中にはマジでたくさんの意見にあふれている。そしてその溢れている意見達は、本人たちに省みられることはなく、永久にその場にとどまっている。その意見達は、その意見を言った本人たちに忘れ去られて、宙ぶらりんになりながら今もなお「そこ」に存在している。

 

安部さんが辞めたという流れの中で、こんなツイートがあった。

 

 

僕はこのツイートを見て、何一つ世界が変わらないということを悟った。

 

メディアがもっとちゃんとしていれば、とか、教育がもっとしっかりしていれば、とか。世の中にはそんな「〇〇がしっかりしていれば・ちゃんとしていれば」みたいな言葉で世の中を済まそうとする人間がたくさんいる。

 

別にそれはそれでいいし、実際メディアがちゃんとしていれば長期政権にならなかったのだろう(知らんけど)。だけど、たぶんそれじゃあ世界は変わらない。なぜならメディアや教育がちゃんとしてないのは、我々がちゃんとしていないからだ。

 

我々がちゃんとしていれば、安部政権が傍若無人にふるまうこともなかった(知らんけど)し、安部さんが辞める際に、病気のことを揶揄するような人間も出現しなかっただろう。

 

だけど、我々は、我々がしっかりしていなかったということから目をそらし、自分が言った意見を忘れ、何かを誰かの責任にして、自分では一切責任を負わなくなった。

 

だから何だ・どうした、と言う力は僕にはない。この態度も内省していないし責任逃れだ。要するに今を生きる日本人は全員、例外なく、もれなく、一人残らず、クズだということだ。そして、「俺は反省してますけどね」という風な文章を書いている僕が一番のクズでもある。

 

まあ、何か言わないといけないとすればそれは、責任を負うのは誰だっていやだけど、自分を省みることは責任を負うことよりはましだし出来るはずだから、まずは少しずつでも市民全員がそれをしていこうよと言うことぐらいである。

 

たぶん無理だけど。責任を負わない・内省しないのはめたくそ楽だから。

理論国語と文学国語に思うこと~文学はいつでもそこにある~

diamond.jp

 

ozean-schloss.hatenadiary.org

 

こんな記事を読んだ。

 

ぶっちゃけ、理論国語と文学国語が分かれて理論国語の授業しか受けない人が出てきても、良いんじゃないかと思う。なぜならこれは高校の話だからである。

 

中学や小学生で文学を扱わない方針が出たら、それは大いに反発する必要があると僕は思う。しかし、高校だったら理論国語のみでも構わないような気がする。

 

大学入試の改革に関連してこのような国語教育改革が行われるらしいが、ここで言う大学入試とは共通試験のことだろう。多くの大学が実施する二次試験にはこの改革には含まれていないはずである。であるとするならば、今のところ大学入試は文系理系で分かれているが、文系の大学を志望する人間は、たぶん理論国語だけしか授業を受けないという選択肢はないんじゃないかと思う。そして、理系の人間は(僕が高校生の時からそうだが)国語なんて教科に目を向けちゃいない。

 

ということは、理論国語と文学国語に分かれたところで、今の高校教育の現場とそんなに変わらないのでは?と思う。

 

そして、この手の話になるといつも思うのだが、どうしてみんな「若いうちから文学に触れていないとだめだ」と思っているのだろうか(ここでは、若い人と言うのは高校生を指す)。

 

文学というものは、若い時に触れておかなければ我々に答えてくれないのだろうか?僕はそうは思わない。僕は文学というものは、いつどこで触れても、私たちを受け止めてくれる存在、私たちに寄り添う存在であると信じている。そして、文学は私たちが文学に触れていない時でも私たちを受け入れるためにいつでもそこにいるのである。

 

そして、今の日本では文学というものは、何も小説に限ったものではなくなってきている。例えばマンガだったり、アニメだったり、映画だったり、そう言ったものも文学の一つである。今の若者は小説は読まないかもしれないけど、マンガを読んだりアニメを観たり、映画を観たりしている。少なくとも僕が高校生の時(六年前から四年前)は、バカみたいにアニメを観て、マンガを読んで、小説を読んでいた(映画はちょっとしか観てなかった)。

 

これは理系だろうが文系だろうが変わらない。ちなみに僕は理系にいたが、クラスのみんな、アニメを観たり、マンガを読んだり、小説を読んだりしていた。そして、みんなそれらから各々受け取った言葉を伴って今生きている。

 

文学というものは、今ではそういったものから触れることができる。そして、そう言ったものに出てくる言葉を伴って、若者は成長していくし、老人は死なないようにしている。

 

僕は二つ目の記事の著者のように文学に対してドライではない。しかしながら、今回の話には、少し違和感があった。もし、この国語教育改革を批判するならば、まずは大学改革というものを知り、そこから批判していかなければならないと思う。しかし、大学改革の批判は今はそんなに聞かない。諦めてしまったのだろうか。

 

文学は、いつだって私たちにすべて(そこには負のモノももちろんある)を与えてくれる。そしてそれは、たぶんほとんどの高校生が教科書なんかなくても実感として感じているものだと思う。

 

最後に、僕が通っている大学の教授が書いた大学改革の本を紹介して終わる(僕はこの本を使った授業も受けました)(ちなみに大学改革についての話は今のところする予定はないです)。

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

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  • 作者:山口 裕之
  • 発売日: 2017/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

「無批判なセクハラ描写に注意 アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』」を読んだ感想~VG+は文学に教科書を求めている~

ハッキリ言って、クソである。

virtualgorillaplus.com

 

僕は『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』をマジで一ミリも見たことがないし今も見る気がしない。CMで米津がパッと開いて咲いたのは知っている。なので、上の記事で指摘されているシーンが正しいのかどうかは知らない。だが、僕がクソだといった理由はそこにはない。

 

VG+の第一回かぐやSFコンテストに作品を提出していた僕は、その関係でTwitterをフォローしていた。そして、ある日ふとTL上に上ったのがこの記事だった。

 

僕は大学でアニメのアダプテーションを研究しているので、アニメ映画を扱ったこの記事に興味を持ち読んでみることにした。

 

僕は驚いた。仮にも文学賞を開いているサイトが、このような記事を出したことに。

 

この記事の中身は各自で読んでほしいが、僕が一番驚いたのはこの部分だ。

 

次の時代をつくりだしていく子ども達には、こうしたセクハラ表現は“日常的なジョーク”では済まされず、現実ではあってはならないことだと、きちんと伝えていく必要がある。 

 

は?

 

は??

 

は???

 

まず一つ言いたいのは

何故文学が教科書にならなくてはいけないと思っているのだ?

ということである。 

 

西郷竹彦の『文学のなかの母と子』のまえがきに、このような文章がある。

 

これらの作品(だけでなく。すべての文学作品)は、人間いかに生くべきかについて教えるものではなく、人生について考えさせるものであり、いや、正しくいえば人生そのものをじかに見せるものなのです。

 

小説でも映画でもドラマでもアニメでも漫画でもなんでもそうだが、上の引用がすべてだと僕は思っている。人生そのものをじかに見せられて、そこから何かを受け取ったのなら、それはそれでいい。ただ、教科書として文学を扱うのはいかがなものかと僕は思う。

 

VG+がこの記事を出したということは、運営している人間が、「文学は教科書であるべき」と少しは思っていることになる。きっと、第一回かぐやSFも、教科書的なものを選んだのだろう(最終選考作品をまだ読んでいないのでこれは何とも言い難いが)。

 

そしてもう一つ言いたいことは

 

なぜ、そうした社会(この場合はセクハラに無批判な社会)を批判しないのか

 

ということである。

 

宇野常寛的言い方をすれば、「虚構の最たるものであるアニメーションは、現実社会をより詳細に描き出すことに成功している」のである。つまり、虚構はつねに社会を反映していることになる。

 

とすると、虚構に描かれていることは、ある意味では現実世界で起こっていることであるはずである。

 

件の記事は、映画の上で、何の脈絡もなくセクハラが起き、それに対して批判も反省もないとしている。『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は1993年に肘テレビ系のテレビドラマとして放送された後、1995年に映画化して2017年にアニメ映画化したものらしい。

 

件の記事は、これら三つを比較して、セクハラシーンの有無を調べたうえでアニメ映画版を批判しているわけではなさそうだ。どこにもそんなことは書いていない。百歩譲って、それらを踏まえたうえで書くならまだマシだと思う。が、そんなことはしていない。

 

ここで皆さんに考えてほしいのは、1993年当時のドラマにも同じようなセクハラシーンが流れ、1995年にも同じようにセクハラシーンが流れ、そして2017年につながっていた場合、二十年ちょっと経っているのにもかかわらず、相変わらずセクハラシーンを多くの人が受け入れている社会の方を批判するべきじゃないか(実際件の記事が出たのは2020年だ)?

 

先ほども書いたが、虚構は現実世界を反映している。ということは、セクハラシーンがあって、さらにそれに無批判なまま物語が進んでいることは、現実社会でもセクハラが行われていてそれらは無批判のまま多くの女性に傷をつけたまま流されていることを示していると言える。

 

では、なぜそんな社会を批判しないのだろうか?たぶん出来ないんだろう。

 

形式は進化しているが、真にアップデートしなければいけないのは、中身の方だ。 

 

中身が進歩していないということは、社会が進歩していないということだ、ということがわからないのは、明らかな想像力の欠如である。そして、セクハラがまかり通るような今の社会を批判せず、アニメ批判に終始しているのは明らかなモラルの欠如でもある。

「どこまでも一人」の奥~「星野源『折り合い』がめちゃめちゃ怖い」を読んだ後、聴いてみたら~

www.kansou-blog.jp

 

良いブログだった。

 

これを読んだ後、星野源の『折り合い』のPVを観たし曲を聴いた。

 

率直な感想は、「星野源してるな」だった。僕はそんなに星野源の曲を聴かないけど(種類は)。

 

上のブログでは、「愛しているよという言葉を使ってるのは星野源的ではない(意訳)し、それに加えてこの曲には何かアンバランス感があってもろもろのこと含めてなんか怖い(意訳)」と書かれている。僕はそうは思わなかった。いつもの星野源だと思った。

 

上のブログでは、星野源はいかに「好き」だの「愛してる」だのという言葉を使わずにラブソングを作るか協会の会員だったらしいということが書かれていて、そのことからこの曲はラブソングだと書いてる人は思っているのだということがわかるが、そもそもこの曲をラブソングとして認識しているのは何故なんだろう。「愛してるよ 君を」という歌詞からそう思ったのだろうか。

 

僕はこの曲がラブソングとは思わなかった。もちろんラブソング的要素も存在していなくはない(もしくはそう見える)が、この曲は究極的には一人であることと、を唄っていると僕は感じた。

 

一人になりたいのか(←「いがみ合うよ彼ら」という歌詞から、「彼ら」と表現しているということは、その「彼ら」とは距離を置いていることが考えられる)。結果として一人なのか。究極的に一人にしかなり得ないのか。それでも一人になりたくないのか。

 

愛してるのは君だけど、君じゃなくて君との関係性かもしれない。家族のように映るけど、家族ではない関係性。他人のようで違うけれど、自分(他人の反対語)ではない君という存在との関係性。君は他人なんだけど他人とは違うかもしれないと自分が思う関係性。

 

愛しているのだとすれば、それはそんな関係性かもしれない。

 

そして、星野源は「愛してるって言葉はおこがましいし滑稽だ」と言い切ったのであれば、彼自身の内情に何か変化がないと仮定すると、この曲の「愛してるよ」という言葉はおこがましく滑稽なものになるはずである。

 

ということは、「愛してるよ 君を」という歌詞は、というかこの曲は、もしかしたら「愛してるという言葉はおこがましいし滑稽だ。なぜなら、究極的に一人である自分から生まれた感情を、他人のようで違って家族のように映るが究極的に自分ではない君という存在に向けて放つからだ。この放たれた言葉は一人の自分から生まれたものであるがゆえに僕ではない君が完全に理解できることはない。それは人間という生き物の滑稽な姿である。そして、それでも愛してるという言葉を君に放ったというこの行為は、完全に理解されないことがわかっているのにもかかわらず君にぶつけたという点でおこがましいと言える」とか、「関係性を愛しているってなんやねんと思いつつも、自分という存在は他人にはなれず、他人は自分にはなれないので、他人である君に愛を伝えるとき、大事だと自分が思うものの大半は抜け落ちてしまうので、はたから見ればそれは関係性を愛しているという風に見えるのかもしれない」ということを伝えたいのかもしれない。

 

知らんけど。