頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

無理して大学進学しても報われないけどそれでも大学に行け

大学に行け。

 

ちきりんさんがこんなのを書いていた。

chikirin.hatenablog.com

 

僕がこれを読んだ感想としては、「産業構造が変わらなければ教育投資しても報われないのは本当だろうか?そもそもこの『報われない』が曖昧なので、『無理して大学進学してもやりたい仕事ができない』のほうが良いのでは?というか、大学を就職のための場所・いい仕事を獲得するための場所として見ている(ようにこの記事のみでは思える)ことに違和感がある。大学は教育機関であると同時に研究機関でもあり、本質的には民主主義社会を構成する人間にとって必要な考え方や知識を授けられる・求めに行く場所であるので、大学に入学する人間の意識が仕事に向いているのが無理のある構造を作り出しているのでは?まあしゃーないけど」というものだった。

 

民主主義社会は市民全員の頭が良いことが前提のハチャメチャな社会制度である。そして大学は「民主主義社会を構成する人間が持っていなくてはならない、『相手と話し合いで合意形成することができる』能力」を養う場所である。「相手と話し合いで合意形成することができる能力」とは、相手が話していることを正しく理解して、相手に自分の思っていることを正しく伝える能力である。今の日本における義務教育や高校教育では、人々にこの能力が養われる可能性は低い。今のところ大学だけがこの能力を大きく成長させることができる場として機能している。つまり、大学に行かなければこの能力を習得することは出来ないのである。

 

しかし、そんなことを言われても、僕たち私たちには関係ないと思う人もいるかもしれない。残念だが。

 

じゃあ、みんな大好きな仕事と絡めよう。

 

仕事は人間が民主主義社会の中で成熟するために必要なモノであり、すべての仕事に必要な基礎的部分は、相手が話していることを正しく理解して、相手に自分の思っていることを正しく伝える能力である。これが出来なければどれだけ高度な技術や学問を習得・研究しようとしても無理が生じる。

 

そして先ほど言ったように、その能力を養うには今のところ大学くらいしか有効な場所はない。

 

もそもその話、教育というコンテンツそのものが報われないコンテンツであり、確率・可能性の低い投資であることは、少し考えればわかると思う。ウチの母親は短大卒だが数Ⅱを忘れているし、ウチの父親は古文を読めない。僕は大学生だがボイルシャルルの法則を忘れているし、微積が出来ない。

 

教育なんてそんなもんである。教育はものすごく大きな「数うちゃ当たる」戦法なのである。だから、教育投資しても報われないのは仕方がない。

 

しかし、仕方がないからと言って、教育投資、つまり大学に行かないという方法をとるのは間違っていると僕は考える。それは、上にも書いた通り、大学ではとりあえず民主主義社会において必要な能力である相手が話していることを正しく理解して、相手に自分の思っていることを正しく伝える能力が養われる可能性が大学に行かないルートよりも格段に上がるからである。

 

もちろん経済的事情で大学に行けなかったり、大学を卒業した後大変だったりするのはわかる。しかし、無理して大学進学しても報われないから行かないという選択は、あなたの自由を結果的に狭めているかもしれないということを理解しておいた方が良い。

 

また、ちきりんさんの結果に付け加えると、この問題(これはちきりんさんが提示しているモノ)を解決するには「大学で学ぶ人間の限りなく100%に近い割合が、相手が話していることを正しく理解して、相手に自分の思っていることを正しく伝える能力を習得することができる構造の作成」が必要だと考える。

「頭が悪い人」という言葉を使う人間の頭の悪さは異常

題名の通り、「頭が悪い人」という人間の頭の悪さは異常だと僕は思う。ちなみに僕は頭が悪い。

 

例えば、「頭の悪い人間から何か言われても無視しよう」とか、「頭の悪い人間に対してどのように文章を書けばいいかわかった」とか、「バカとは関わらんようにしよう」とか。こういった内容のことが巷では溢れかえっています。

 

そこで一つ疑問に思うことは、それらを言っている人間の頭は、果たして良いのだろうかということと、頭が悪いとその人に思われている人は、果たして本当に頭が悪いのだろうかということである。何かデータでもあるのでしょうか?あるなら見せてほしい。お願い。

 

そもそも、「頭が悪い人」の基準を明確にしないまま「頭が悪い人」や「バカ」という言葉で済まそうとしているこの行為が頭悪くないですか?

 

まあ、多くの場合、この「頭が悪い人」というのは、「日本語が読めない人」もしくは「読解能力がない人」を表現しています(知らんけど一応そういうテイで話を続ける)。しかしながら、そのように言いたいのであれば、「日本語が読めない人」とか、「読解能力がない人」という表現をすれば、「頭が悪い人」と書く人間たちに頭が悪いと思われている人たちにも伝わると思うんですけど(確率が高まると思うんですけど、とも言う)。

 

このことから、「頭が悪い人」という言葉を使っている人間の文章力(この場合は多くの人が理解できる文章を書くの応力のことを言う)が低いだけなのではないかと思ってしまいます。もしくは、頭が悪い人がこの世に存在しているということを想像できない、別ベクトルの頭の悪さを持ち合わせているか。たぶんこれでしょう。「頭が悪い人」という言葉を使う人間は、別ベクトルで頭が悪い。

 

で、予想なんですけど、「頭が悪い人」という言葉を使う人たちは、たぶん「頭が悪い人」たちを釣って楽しんでいるのでしょう。その行為を「頭が悪い人」ではない人たちに「頭が悪いなぁ」と思われているのも知らずに。

 

この世は頭の悪い人ばかりで、それぞれ頭の悪さのベクトルが違う。

 

ちなみにここで「頭の悪い人」という言葉は十三回使われている(嘘)

作者の思想思考が嫌だから作品を見ない人は『我が闘争』を読めないのか

読めないだろうな。だって、サイテーだもん、あいつ(アドルフ)。

 

別にいいんすよ。あなたがある作者の思想なり思考なりを嫌いでそのためにその作者が書いたものを読まないということがあっても。あなたがそうであったとしても。どうでもいい。

 

しかしながら、僕はあなたを「可哀そうだな」とは思う(これは上から目線の物言いであることは重々承知している)。作品というものと作者という存在が同一であるという見方しかできない可哀そうな人なのだなと思う。もちろん、作品の中に作者の思想なり思考なりが反映されていることは間違いないとは思う(どこにどう反映されているかはわからん)。だが、すべての思考思想が反映されているとは思わないし思えない。例えばいろいろな動物たちが森の中で楽しく遊んでいる可愛い絵本を描く作者も、実はゴリゴリの保守主義かもしれない。閉鎖された保守的な村の生活を描写した保守的内容の小説の作者がめっちゃ進歩主義かもしれない。

 

内容と思想思考が完全にマッチしていて、それを読みのが「つらい」から読まない人もいると思う。僕にはこの「つらい」がわからない。なぜなら、僕は自分と違う考えをする人間が隣にいると思っているから。当然、違う意見を持つ人間に対して、自分緒意見を投げる、ぶつける、刺すことはします。けれども、そいつがいることによって「つらい」という感情は持たない。

 

もしかして、あなたは世界で自分と違う考えをする人間がいないと思ってるのですか?もしくは、自分と違う考えの人間がいるということを、「つらい」からという理由で認めないのでしょうか?ずいぶんと独裁的ですね。そんなあなたにお勧めの本があるんですけど。『我が闘争』って知ってます?

 

作者の性別は何でもいいしお前の性別だって何でもいいよ

良く知らないですけど、鬼滅の刃の作者が女性であったことについてとやかく言われているらしいですね。バカじゃん。世の中。

 

というか、鬼滅の刃ってすごいんだな。今「きめつのやいば」って打ったらちゃんと漢字に変換されるのな。それくらい認知度の高いコンテンツなのだろう。

 

ちなみに僕は鬼滅の刃を二ミリも知らない。しかし、一ミリは知っている。鬼滅の刃は主人公の妹が鬼になっちゃったからどうにかするぜっていう話だということと、最初は今の主人公はサブキャラの一人だったという鬼滅の刃誕生秘話(このまえのやりすぎで誰かがしゃべってた)と、「鬼詰のオメコ」というアダルトビデオが存在しているということは知ってる。だから僕は二ミリは知ってると言い張る。たとえ読んだことがなくても。

 

話を作者の性別ががあーだこーだ言われてることについて戻そう。

僕は基本的に作者の性別とか年齢とかどーでもいいタイプの人間です。というか、みんなそうなんじゃないの?そんなに作者について興味ある?お前は漫画を学問的に研究していて作家論的に論じようとしているタイプの学者なのか(もしそうだったら鬼滅の刃を用より先に論文読むから頑張って書いて)?そんなことより裏設定とかの方が興味ないか?少なくとも僕は、あそこの元ネタがあれで、ここのシーンはここからインスピレーションを受けて……etcとかの話の方が一億倍興味がありますね。どんな作品に関しても(まあ、インスピレーション云々の話は作者の話にもなるからそこをつかれたらぐぅ)。

 

今回の騒動を見てわかったのは、みんな(?)作品よりも作家の方が気になるんだなということ。なんでそんなに赤の他人に興味があるわけ?他人だよ?しかも赤の。百歩譲って、これが隣人だったり同じ学校のクラスメイトだったり同じゼミの人だったらまだわかる(隣人はねーか)。言っても人間は他人に興味を持たざるを得ない生物だから(というか、生物、特に哺乳類(社会を持つ)なんかはそんな傾向がある気がする)。ただ、めっちゃ自分の立ち位置から離れているであろうお前が好きな(もしくは嫌いな)作品の作者って、どうでもよくない?例えば連載している好きな漫画の作者が急死したら気になるけど、それは「もうこの好きな作品が読めないんだ」という作品ありきの話じゃん?あと逮捕されたりとかさ(おろ?)。

 

みんなもうちょっと作品をベースに考えたほうがいいんじゃないか?というか、本当に自分はその作品を享受していると言えるのか?もしかしたら自分はその作品に関する作者の二次的情報を受け取っているだけなのでは?とか考えたほうがいいよ。たぶん。まあ読んでないやつが言うなって話ではあるが。

 

あと、これは付随する話だけど、Twitterに「右でも左でもいいが差別する作者の本は読まない」みたいなのが流れていたんだけど(リツイートもいいねもしてないのでTRに流れていった)、もしこの人の話が本当だとすると、この人は一生涯『我が闘争』を読めないから可哀そう(ちなみに僕も読んだことはない)。というか、どうやって作者が差別しているかしていないかを判断するんだろうかという純粋な疑問が生じる。もしかしてこの世の作家というものが全員Twitterやってると思ってんのか?

 

結局何が云いたいかって言うと、みんなもっと作者じゃなく作品に対して向き合うべきだし、作者の性別はどうでもいいし、これを読んでいるお前の性別もどうでもいいし、このブログが100万年後とかに無機質の知的生命体に読まれることがあったならうれしい。

オンライン上でも空間の制約は存在する?~うんこ大学生がリモートゼミをして思ったこと~

来年度には新社会人(仮)予定である僕は、今567のおかげで(?)ゼミがリモートになっています。

僕の所属しているゼミは特殊なのかわかりませんが、ゼミ時間の半分が意図的に雑談で埋められています。雑談と言っても話す内容は決まっていて、ゼミ生がそれぞれ10分程度で今週読んだ本の紹介と、文化的トピックスの紹介を軸に雑談しています。

この雑談タイムの良い点は、他人がしゃべっていようが他のゼミ生と雑談できるという点です。細かくいえば、発表者(この場合はさすがに先生を除く)が話していても、近くの人間と発表者の発表について話すことができると良く鳥屋雑談することによって、その人が何を考えている家や何を知っているかを何となくですが把握することができるという点が良い点だと僕は考えています。

こんな雑談タイムが僕は好きでした(面白い内容は少ないが)。しかしながら、リモートになったことによって、雑談が失われてしまったのです。

基本的にリモートゼミは、誰か一人がしゃべります。それは先生やゼミ生なのですが、その時他のゼミ生は基本的に無言です。ここで、非リモート時に起きていた雑談が消滅したことがわかります。先生はどうにかして非リモート時の雑談と同じほどの活気を取り戻そうとチャットの使用を推奨していました。しかし、チャットをして思ったのは、明らかにしゃべることとチャットでは、チャットがテンポや非言語コミュニケーションの点で劣っているということです。

ここでわかったのは、オンラインでは空間が制約されないかと思いきや、想定していた空間の制約はないが別の場面での空間の制約が出現したということです。

もうちょっと分解します。

一般的に、オンラインでの会議や授業というのは、どこか特定の場所に居なければいけないという空間の制約がないです。これは、オフラインでの会議や授業における空間の制約を解消したことになります。しかしながら、オフライン時では可能であった、誰かがしゃべっているときに別の誰かとそのことについてこそっと話すことがオンライン上ではできません。これは、空間の制約が発生したと言えます。

ここまで書いてきて思ったんですけど、これってオンライン上の空間の制約なのか?もしかしたらシステムによる制約の間違いなのでは?と思いましたが、題名を決めてしまっているのでいったん目を瞑ります。いや、瞑らないでおきます。

まあとにかく、自身の身体で感じてきた空間と、オンライン上の空間というのは感じ方が違うということはわかります。まあ、僕はデジタルネイティブですが、どちらかというと、自身の生活の延長線上にオンラインが存在していたかと言われればそうではなかったので(今はそうかもしれないが)そう感じているだけかもしれませんが。

つまるところ何が云いたいかって言うと、身体性を持った密な状態での会議なり授業をオンライン上で再現するためにはどうしたらいいのだろうかということを思いましたよってことです。こうすれば良いんじゃないかってことを具体的に考えたらまた書きます。