頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

「どこまでも一人」の奥~「星野源『折り合い』がめちゃめちゃ怖い」を読んだ後、聴いてみたら~

www.kansou-blog.jp

 

良いブログだった。

 

これを読んだ後、星野源の『折り合い』のPVを観たし曲を聴いた。

 

率直な感想は、「星野源してるな」だった。僕はそんなに星野源の曲を聴かないけど(種類は)。

 

上のブログでは、「愛しているよという言葉を使ってるのは星野源的ではない(意訳)し、それに加えてこの曲には何かアンバランス感があってもろもろのこと含めてなんか怖い(意訳)」と書かれている。僕はそうは思わなかった。いつもの星野源だと思った。

 

上のブログでは、星野源はいかに「好き」だの「愛してる」だのという言葉を使わずにラブソングを作るか協会の会員だったらしいということが書かれていて、そのことからこの曲はラブソングだと書いてる人は思っているのだということがわかるが、そもそもこの曲をラブソングとして認識しているのは何故なんだろう。「愛してるよ 君を」という歌詞からそう思ったのだろうか。

 

僕はこの曲がラブソングとは思わなかった。もちろんラブソング的要素も存在していなくはない(もしくはそう見える)が、この曲は究極的には一人であることと、を唄っていると僕は感じた。

 

一人になりたいのか(←「いがみ合うよ彼ら」という歌詞から、「彼ら」と表現しているということは、その「彼ら」とは距離を置いていることが考えられる)。結果として一人なのか。究極的に一人にしかなり得ないのか。それでも一人になりたくないのか。

 

愛してるのは君だけど、君じゃなくて君との関係性かもしれない。家族のように映るけど、家族ではない関係性。他人のようで違うけれど、自分(他人の反対語)ではない君という存在との関係性。君は他人なんだけど他人とは違うかもしれないと自分が思う関係性。

 

愛しているのだとすれば、それはそんな関係性かもしれない。

 

そして、星野源は「愛してるって言葉はおこがましいし滑稽だ」と言い切ったのであれば、彼自身の内情に何か変化がないと仮定すると、この曲の「愛してるよ」という言葉はおこがましく滑稽なものになるはずである。

 

ということは、「愛してるよ 君を」という歌詞は、というかこの曲は、もしかしたら「愛してるという言葉はおこがましいし滑稽だ。なぜなら、究極的に一人である自分から生まれた感情を、他人のようで違って家族のように映るが究極的に自分ではない君という存在に向けて放つからだ。この放たれた言葉は一人の自分から生まれたものであるがゆえに僕ではない君が完全に理解できることはない。それは人間という生き物の滑稽な姿である。そして、それでも愛してるという言葉を君に放ったというこの行為は、完全に理解されないことがわかっているのにもかかわらず君にぶつけたという点でおこがましいと言える」とか、「関係性を愛しているってなんやねんと思いつつも、自分という存在は他人にはなれず、他人は自分にはなれないので、他人である君に愛を伝えるとき、大事だと自分が思うものの大半は抜け落ちてしまうので、はたから見ればそれは関係性を愛しているという風に見えるのかもしれない」ということを伝えたいのかもしれない。

 

知らんけど。