「無批判なセクハラ描写に注意 アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』」を読んだ感想~VG+は文学に教科書を求めている~
ハッキリ言って、クソである。
僕は『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』をマジで一ミリも見たことがないし今も見る気がしない。CMで米津がパッと開いて咲いたのは知っている。なので、上の記事で指摘されているシーンが正しいのかどうかは知らない。だが、僕がクソだといった理由はそこにはない。
VG+の第一回かぐやSFコンテストに作品を提出していた僕は、その関係でTwitterをフォローしていた。そして、ある日ふとTL上に上ったのがこの記事だった。
僕は大学でアニメのアダプテーションを研究しているので、アニメ映画を扱ったこの記事に興味を持ち読んでみることにした。
僕は驚いた。仮にも文学賞を開いているサイトが、このような記事を出したことに。
この記事の中身は各自で読んでほしいが、僕が一番驚いたのはこの部分だ。
次の時代をつくりだしていく子ども達には、こうしたセクハラ表現は“日常的なジョーク”では済まされず、現実ではあってはならないことだと、きちんと伝えていく必要がある。
は?
は??
は???
まず一つ言いたいのは
何故文学が教科書にならなくてはいけないと思っているのだ?
ということである。
西郷竹彦の『文学のなかの母と子』のまえがきに、このような文章がある。
これらの作品(だけでなく。すべての文学作品)は、人間いかに生くべきかについて教えるものではなく、人生について考えさせるものであり、いや、正しくいえば人生そのものをじかに見せるものなのです。
小説でも映画でもドラマでもアニメでも漫画でもなんでもそうだが、上の引用がすべてだと僕は思っている。人生そのものをじかに見せられて、そこから何かを受け取ったのなら、それはそれでいい。ただ、教科書として文学を扱うのはいかがなものかと僕は思う。
VG+がこの記事を出したということは、運営している人間が、「文学は教科書であるべき」と少しは思っていることになる。きっと、第一回かぐやSFも、教科書的なものを選んだのだろう(最終選考作品をまだ読んでいないのでこれは何とも言い難いが)。
そしてもう一つ言いたいことは
なぜ、そうした社会(この場合はセクハラに無批判な社会)を批判しないのか
ということである。
宇野常寛的言い方をすれば、「虚構の最たるものであるアニメーションは、現実社会をより詳細に描き出すことに成功している」のである。つまり、虚構はつねに社会を反映していることになる。
とすると、虚構に描かれていることは、ある意味では現実世界で起こっていることであるはずである。
件の記事は、映画の上で、何の脈絡もなくセクハラが起き、それに対して批判も反省もないとしている。『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は1993年に肘テレビ系のテレビドラマとして放送された後、1995年に映画化して2017年にアニメ映画化したものらしい。
件の記事は、これら三つを比較して、セクハラシーンの有無を調べたうえでアニメ映画版を批判しているわけではなさそうだ。どこにもそんなことは書いていない。百歩譲って、それらを踏まえたうえで書くならまだマシだと思う。が、そんなことはしていない。
ここで皆さんに考えてほしいのは、1993年当時のドラマにも同じようなセクハラシーンが流れ、1995年にも同じようにセクハラシーンが流れ、そして2017年につながっていた場合、二十年ちょっと経っているのにもかかわらず、相変わらずセクハラシーンを多くの人が受け入れている社会の方を批判するべきじゃないか(実際件の記事が出たのは2020年だ)?
先ほども書いたが、虚構は現実世界を反映している。ということは、セクハラシーンがあって、さらにそれに無批判なまま物語が進んでいることは、現実社会でもセクハラが行われていてそれらは無批判のまま多くの女性に傷をつけたまま流されていることを示していると言える。
では、なぜそんな社会を批判しないのだろうか?たぶん出来ないんだろう。
形式は進化しているが、真にアップデートしなければいけないのは、中身の方だ。
中身が進歩していないということは、社会が進歩していないということだ、ということがわからないのは、明らかな想像力の欠如である。そして、セクハラがまかり通るような今の社会を批判せず、アニメ批判に終始しているのは明らかなモラルの欠如でもある。