頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

理論国語と文学国語に思うこと~文学はいつでもそこにある~

diamond.jp

 

ozean-schloss.hatenadiary.org

 

こんな記事を読んだ。

 

ぶっちゃけ、理論国語と文学国語が分かれて理論国語の授業しか受けない人が出てきても、良いんじゃないかと思う。なぜならこれは高校の話だからである。

 

中学や小学生で文学を扱わない方針が出たら、それは大いに反発する必要があると僕は思う。しかし、高校だったら理論国語のみでも構わないような気がする。

 

大学入試の改革に関連してこのような国語教育改革が行われるらしいが、ここで言う大学入試とは共通試験のことだろう。多くの大学が実施する二次試験にはこの改革には含まれていないはずである。であるとするならば、今のところ大学入試は文系理系で分かれているが、文系の大学を志望する人間は、たぶん理論国語だけしか授業を受けないという選択肢はないんじゃないかと思う。そして、理系の人間は(僕が高校生の時からそうだが)国語なんて教科に目を向けちゃいない。

 

ということは、理論国語と文学国語に分かれたところで、今の高校教育の現場とそんなに変わらないのでは?と思う。

 

そして、この手の話になるといつも思うのだが、どうしてみんな「若いうちから文学に触れていないとだめだ」と思っているのだろうか(ここでは、若い人と言うのは高校生を指す)。

 

文学というものは、若い時に触れておかなければ我々に答えてくれないのだろうか?僕はそうは思わない。僕は文学というものは、いつどこで触れても、私たちを受け止めてくれる存在、私たちに寄り添う存在であると信じている。そして、文学は私たちが文学に触れていない時でも私たちを受け入れるためにいつでもそこにいるのである。

 

そして、今の日本では文学というものは、何も小説に限ったものではなくなってきている。例えばマンガだったり、アニメだったり、映画だったり、そう言ったものも文学の一つである。今の若者は小説は読まないかもしれないけど、マンガを読んだりアニメを観たり、映画を観たりしている。少なくとも僕が高校生の時(六年前から四年前)は、バカみたいにアニメを観て、マンガを読んで、小説を読んでいた(映画はちょっとしか観てなかった)。

 

これは理系だろうが文系だろうが変わらない。ちなみに僕は理系にいたが、クラスのみんな、アニメを観たり、マンガを読んだり、小説を読んだりしていた。そして、みんなそれらから各々受け取った言葉を伴って今生きている。

 

文学というものは、今ではそういったものから触れることができる。そして、そう言ったものに出てくる言葉を伴って、若者は成長していくし、老人は死なないようにしている。

 

僕は二つ目の記事の著者のように文学に対してドライではない。しかしながら、今回の話には、少し違和感があった。もし、この国語教育改革を批判するならば、まずは大学改革というものを知り、そこから批判していかなければならないと思う。しかし、大学改革の批判は今はそんなに聞かない。諦めてしまったのだろうか。

 

文学は、いつだって私たちにすべて(そこには負のモノももちろんある)を与えてくれる。そしてそれは、たぶんほとんどの高校生が教科書なんかなくても実感として感じているものだと思う。

 

最後に、僕が通っている大学の教授が書いた大学改革の本を紹介して終わる(僕はこの本を使った授業も受けました)(ちなみに大学改革についての話は今のところする予定はないです)。

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

  • 作者:山口 裕之
  • 発売日: 2017/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)