「エモい」を多用することによって生じる問題は、語彙力低下ではなく、語彙そのものの消失なのではないか
最近の若い人が何でも「エモい」ですませるのは問題だ、という趣旨の識者コメントを、本日の新聞で読みました。いろいろ感想が浮かび、こういう記事をでっち上げてみました。いかがでしょう。 pic.twitter.com/Glk8W9ZxDW
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) March 28, 2020
「『エモい』ですませるのは問題か問題じゃないか」問題、巻き起こってますね(知らんが)。
このツイートには、「本日の新聞」とはどの新聞で、どのページで、識者とは誰なのか書いていないので、元記事を確認することができません。ですので、本当に「エモい」で済ませるのは問題だと書いた識者や記事が存在するのかは、わかりません。そういう情報は重要なんだから書けよな。大学出てないのか?国語辞典編纂者なんだろ?バカじゃねぇんだからよ。書けよ。
まあ、そんなことは置いておいて。仮にこの人の言う通り、「エモい」で済ませるのは問題だと書いてある記事が存在していた場合、我々はどうするべきなのか。少し考えていきたい。
まず、「何が問題なのか」を考えていきたい。
「エモい」の多用を識者が批判することに、私はもちろん疑問を呈したいわけです。「エモい」は「いとおしい」「懐かしい」など種々の感情語の上位概念です。「桜」「コスモス」に対する「花」のようなもの。上位概念は意味が広いので、いろいろな場面で使い、使用頻度が多くなるのは当たり前です。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) March 29, 2020
古語の「あはれ」も、嘆声の「ああ」と関係があるという意見が多い。つまり「あはれ」は嘆声に近いので、古典作品で頻用されるわけです。悲しいにつけ、うれしいにつけ、「あはれ」です。「をかし」(情趣がある)もまた多用されます。だからといって紫式部や清少納言が語彙力不足とは言えません。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) March 29, 2020
これらのツイートを見るに、どうやら例の識者(存在しているかどうかは未確認)は新聞の記事で、「『エモい』ばっかり使うっていうのは、それすなわち語彙力低下のことなり!」と言っていたのだということが想像できる。
もしこういうことを本当に言っていたのであれば、確かにこの人の言う通り「エモい」を多用するから語彙力不足だと決めるのは無理があり、疑問を呈するのはわかる、か?
(僕的には、「エモい」が感情語の上位概念であるという説には少し疑問を持つ。なぜなら、「エモい」って言われても、何がどうエモいのかまったくもって理解できないからだ。例えば、この国語辞典編纂者の方が虚偽記事にしている「ごはん」という言葉や、「花」という言葉は、「エビチリ」や「味噌汁」、「コスモス」「サクラ」といったようなものの上位概念であり、上位概念である分、いろいろな意味をとることが出来るということは感覚的に理解できる。しかし、「エモい」は感覚的に理解できない)
もう少し考えてみよう。
言葉でうまく説明できない感情だから「エモい」って言うんだけど.......
— 時速100kmで走るペニーワイズ (@rutherfordium15) March 29, 2020
今まで「言葉にできない」とされた感情の一部に名付けられたのが「エモい」なのかなと、最近思うようになった
— まさよし@まゆじゃないよまよだよ (@masayoshi_xmayu) March 28, 2020
国語辞典編纂者曰く「エモい」は感情語の上位概念だそうだ。しかし、どうやら「エモい」とは、多くの人の中で「言葉にできない感情」を表すために用いられているらしい。
では、もしこの識者の言いたいことが、「『エモい』を多用することは、言葉でうまく説明できない感情を表現するため以外に、言葉で表すことが可能な感情表現までも『エモい』に置き換えられてしまう可能性を生み出す。なぜなら『エモい』は上位概念であり意味が広いので、様々な場面に転用可能だからだ。もし言葉で表現可能な感情までも『エモい』に置き換えられた社会になってしまった場合、日本語における語彙の多様性が損なわれてしまうのではないかと考えられる。これは、日本語文化にとって大きな損失であるといえる。なぜなら、今まで表現できていたことまでもが曖昧模糊な表現に取って代わられてしまうからだ。なので、『エモい』を多用することは問題である」というものであった場合はどうだろうか。
この場合、反論側としては、「『エモい』が多用されたところで、今まで存在していた表現可能な感情を表す語彙が失われるとは言えないのでは?」というものがあるだろう。
確かにぃ~。
でも、「ヤバい」という言葉の浸透とそれによる元々存在していた言葉の衰退はあると思うんだけどどうなんだろう。まあ、そこらへんはよくわからないのでいったん無視で。
「『エモい』を多用することは、言葉でうまく説明できない感情を表現するため以外に、言葉で表すことが可能な感情表現までも『エモい』に置き換えられてしまう可能性を生み出す。なぜなら『エモい』は上位概念であり意味が広いので、様々な場面に転用可能だからだ。もし言葉で表現可能な感情までも『エモい』に置き換えられた社会になってしまった場合、日本語における語彙の多様性が損なわれてしまうのではないかと考えられる。これは、日本語文化にとって大きな損失であるといえる。なぜなら、今まで表現できていたことまでもが曖昧模糊な表現に取って代わられてしまうからだ。なので、『エモい』を多用することは問題である」
と言われた場合、僕は「そうかもしれないな」と思ってしまう(自分で考えたからある意味当たり前ではあるが)。
たぶん、識者(想像上)は、「『エモい』を多用することによって、『エモい』以外の言葉が失われることが問題である」という思考を、「『エモい』を多用すると語彙力が低下する!」と、間違った方向へ言葉として出力してしまったのだろう。
そうだとしたら、いとあわれ(あはれ、ではなく、あわれ)なり。
つまり僕が何を言いたいのかって言うと以下である。
僕自身は「エモい」だろうが「尊い」だろうが「萌え~」だろうが「ヤバい」だろうが個々人が好きに使えばいいんじゃないの?と思っている。しかし、僕自身はあまりそう言う言葉は使わずに、頑張って頭の中引っさらって少しでも言葉をかき集めて、ちぐはぐで未完成な表現をする。
つまり、僕は「言葉でうまく説明できない感情だから『エモい』を使って表現を終わらせよう」と自分自身の感情を放棄する(もしくは放棄しているように見える)タイプの人間ではなく、「言葉でうまく説明できない感情だけど、何とか言葉にして、形にして、少しでも自分の感情が他人に伝わるようにしよう」とするタイプの人間であるということだ。なぜなら、「言葉にしなきゃ他人にはマジで伝わらない」ということを僕は少し知っているし、「言葉にしても伝わらないこともある」ということも少し知っているからだ(エモいじゃ伝わらん。少なくとも僕には)。
あと、自分の感情は、あまり諦めない方がいいと僕は思う。
また、「『エモい』を多用することによって生じる問題は、語彙力低下ではなく、語彙そのものの消失なのではないか」「「『エモい』を多用するという事象は、現代人の語彙力が低いということを表しているのだ」という論理は少し理解できる」ということも書き記しておく。