頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

映画「ミッドサマー」を見た感想と疑問と仮説~なぜ老人の頭は潰されたのか~

今(2020/2/27現在)流行りの映画「ミッドサマー」を観てきた。ここでは、ネタバレありありのありで感想や疑問をしたためておきたい。

 

www.phantom-film.com

感想

この章では映画を見た感想を書きたいと思う。

率直な感想としては、「まあ、こんな感じだろうなとは思ってた」だ。ツイッタのタイムラインを見ると、「山田上田がいないTRICK」みたいな話をちょくちょく見かけたので、「まあ、宣伝動画とタイムライン上の感想を合わせて予想するに、こんな感じなんだろうな」と思ったものが結構当たっていた。もちろん細かな話は適合していないが(ルーンだのタペストリーだの)、大まかなストーリーラインはあってた(他にもカルト的いけにえの儀式や彼らの通常社会では理解しがたい価値観などの登場)。というか、だいたいどの(こういったカルト系)映画もこんな感じじゃないか?

確かに、ラストシーンの描き方や、途中でコミューン外部の人間が脱出を図る、解決する、と言った内容ではなかったので、そこは邦画と違う部分かなぁとも思ったりもする。しかし、僕自身邦画をそこまでたくさん見ているわけではないので、何とも言えない。

この映画は「フォークホラー」であるという説明が公式ホームページの完全解説に乗っていたが、僕はどちらかと言うと、ホラーよりサスペンスだと感じた。やはり市川崑TRICKのせいか?

映像は綺麗だった。お花とかいっぱいあったし。登場人物を演じている俳優陣の演技も申し分なかったと思う。しかも、申し訳ないがあそこに出ていた俳優たちをだれ一人として知らなかったので、通常ついて回るその俳優のキャラクター性というものがこちら側に存在せず、純粋に映画を楽しむことが出来た。やはり、俳優という存在の持つそのもののキャラクター性は、あった方が良かったり、無かった方が良かったりするのだなと思った。

この映画のストーリーラインの基礎部分としては、「ルーン文字」や「北欧神話」があったことが読み取れた。しかしながら、僕は中二病患者ではあるが、どちらかと言えば「海賊」「テンプル騎士団」「オーパーツ」などを好んでいるタイプの人間だったので、ぶっちゃけ神話の話とかルーン文字の話とか、分からなかった。たぶん、勉強してもう一度観に行くと、また違ったものの見方を出来るのだろうなと思った(もう一度観に行けるかどうかはわからないので、早めにDVDカモ~ン)。

15禁の映画なだけあって、エログロが豊富だった。僕的には、あそこまで死体を描写してくれる映画は最高だと思う。

この映画が複雑で深みを持つことが出来る要因の一つとして、「コミューンの人間が、どのくらいの割合でコミューンのために動いているのか自分のために動いているのかがわかりにくい」というものがあると思う(ペレとかマヤとか)。

 

疑問

この章では僕が映画を観ていた中で疑問に思ったことと、それについての自分なりの仮説を書く。

まずは一つ目の疑問。「なぜダニー(この映画における主人公的存在)の家族は死ななければならなかったのか」

死というものは、割とインパクトの強い事象であると僕は思っている。それが、割と映画の冒頭で現れるということは、一体どういうことなのだろうか?もちろん、この映画における「死」の扱い方は、他の物語(西洋的)とは違うということはなんとなく理解している(輪廻転生的価値観を彼らが持っているから)。しかし、だからと言って、「双極性障害の妹がガスで姉以外の家族と心中を成功させる」ということでなくても良いのではないだろうかと僕は思った。「自分以外の家族全員の死」という結果が欲しいのであれば、他の描写の仕方もあったはずである。しかしながら、それをせずに「双極性障害の妹がガスで姉以外の家族と心中を成功させる」というものを選択したのには、いったいどんな理由があるのだろうか。

僕の仮説は今のところない(というか考え・想像が至らない)が、とりあえず「自分以外の家族の死」が重要、特にダニーの今後の描写にとって重要であるということはわかる。

続いて二つ目の疑問。「なぜ72歳のアッテストゥパンで老人の男性の頭が潰されたのか」

僕はここがすごく引っかかっている。副題につけるくらいには引っかかっているのだ。まずはアッテストゥパンのシーンを思い出してみよう。

まず、老女が切り立った壁の先端に姿を現す。それを下から仰ぎ見る一同。その次に上から老女を撮ったシーンが挿入される。上から見ると、絶壁の下には、何かをするにはおあつらえ向きな平たく丸い大きな岩がある【・)←これを)を下にすると見えるような感じ】。そして、老女が頭から真っ逆さまに飛び降り、頭が重力に従って平たく丸い岩に衝突。頭部が破裂。続いて老人が老女と同じ場所に立つ。すでに衝撃的なシーンを目撃した外部の人間はその老人を見つめるグループとやめさせようと騒ぎ立てるグループに分かれていた。そして、シーンは絶壁がフレームにすべてはいるような形をとった。老人が小さく見え、その分この壁がどれだけの高さを誇っているのかを見る側に伝える。老人が先ほどの老女と同じように飛び降りる。しかしながら、老人は先ほどの老女とは違い、足から落ちた。老人はそのまま地面に激突する。しかし、足が砕け、衝撃で頭部がぐちゃぐちゃになるが絶命には至っていない。それを見て悟ったコミューンの住人たちは、いきなり叫び声をあげ始める。そんな中で、儀式を執り行う立場の人間であろう人たちが、もがき苦しんでいる老人に近づく。手には大きなハンマーを持って。そして、そのハンマーを思いっきり老人の頭めがけて振り下ろす。ひしゃげる老人の顔。しかし、ハンマーの振り下ろされるのは止まらない。三度目の鉄槌が終わり、ようやく元の位置に戻っていくハンマーの人たち。

というような感じだったと記憶している。

ここで疑問なのは、「なぜ頭を潰したのか」と「なぜ老女は頭から落下したが老人は足から落下したのか」。

まず一つ目の「なぜ頭を潰したのか」には、いくつかの仮説がある。一つ目は、「頭を潰せば即死だから」というもの。これは、アッテストゥパンという儀式の性質上、一番説得力があるかと思う。アッテストゥパンでは死ななくてはならないので、死ぬようにしたというのが考えられる。だから、最初の老女も頭から落下したと考えられる。

二つ目は、「頭それ自体に何か意味がある」というもの。キリスト教圏の考え方に、「魂=理性」というものがある。中世ではアリストテレスがしたためた書物の中でたった一行だけ存在している、「理性が魂だよね」的な文言の存在によって、アリストテレスの本は焚書されなかったとか。一般的なイメージとして、理性すなわち魂は頭脳にあると考えているのが西洋圏の特色らしい(メンタリストDaigoがそんなこと言ってた気がするだけなので、僕が正しいエビデンスを持っているわけではない)。これはキリスト教的考え方と言える。ということは、頭それ自体に何が意味があるとして、その意味とはすなわち、魂を開放するためではないだろうか。つまり、頭を潰すことによって、頭から魂が解放され、彼らコミューンが言うところの「輪」に再び入ることが出来るとしているのではないだろうか。しかしながら、今回映画に出てきたコミューンはユミルがあーだこーだケルト共通ルーン文字があーだこーだと言っていたので、キリスト教ではなくアニミズムや土着の宗教によるカルトだということがわかる。ということは、この仮説は間違っているのだろうか。

とするとさらに疑問が生じる。それは、「あのコミューンはいったいいつから存在しているのだろうか」というものである。もし、ヒッピーがアメリカで生まれた1950年以降のコミューンであれば、反キリスト教の要素が色濃く出ているはずである。しかしながら、あのコミューンは、ヌードも少なく(少なくともいつも裸ではない)、どちらかと言えばトップダウン制に近いものを感じるので(族の長的なおばさまに許可をもらわないとセックスが体験出来ないことからも、そう言えると思う)、そうではないのだろう。だとすると、いつの時代からなのだろうか?

もし、「頭=魂=理性」の構図があのコミューン内で成り立つとすると、スウェーデン全土のキリスト教化が12世紀ほどには完了していたらしいので、早くとも12世紀から発生していたことになる。そんな古いのかはわからないが、彼らのコミューンにとっての聖典「ルビ・ラダー」は、どうやらたくさんの巻数があるらしい。なので、ある程度歴史を持っているのだろうと考えられる。

 

この話はここら辺までにして……

 

次は「なぜ老女は頭から落下したが老人は足から落下したのか」である。これは、僕の今のところの仮説は一つしかない。それを今から書く。

まず、老女と老人の違いを見ていく。老女は女性で頭から落下し即死した。一方老人は男性で、なぜだか知らないが(直前のありさまを見て日和ったからか?)足から落下し、即死せずに、コミューンの仲間に頭を潰されて死んだ。

ここで僕が注目したのは、性別の違いである。

そもそも前提として、彼らのコミューンでは、命を大いなる流れの中に返し、自分の命を与えることを喜びとする思想が存在している。いわゆる輪廻転生的なモノなのではないかと僕は思っている(ジョシュも確かインドっぽいって言っていた気がする)。そして、このコミューンには、やけに女性が多い(少なくとも半々ではないことは確か)(いけにえが男性からの選出の方が多いのかもしれない。近親交配を避けるために、内部の女性を殺さず、外部の男性を持ってくることによって新しい遺伝子を入れ、内部の男性をいけにえに捧ぐのは、確かに合理的かもしれない)。メイ・クイーンやマヤのセックスの描写の際なども、女性が多い。子供たちも、男子より女子の方が多い印象だった。(まあ、フレームに多く映っていたのが女性だっただけで、もしかしたら人口比率的には同じなのかもしれないが。映画なので)

彼らのコミューンのなかで、自分がコミューンの一員としての自覚を持たせるための教育というものは具体的には記されていなかったが、女性は料理を作り、男性は畑仕事をしていた。また、女性は初めてのセックスを他の大人に見守られながらするのに対し、男性は生物の内臓の処理方法などを学ぶ(ここにはどちらにも生と死という対比構造が生じる。料理と農作。セックスと内臓処理)。

そして、それらに付け加えて、女性は妊娠出産をすることによって、「命の大いなる流れ」というものを男性よりも感じているのではないだろうか。そして、男性は女性よりもそれを感じていないのではないだろうか(農作よりもセックス(またそれによる妊娠出産)の方が、大いなる命の流れを感じることが出来るはずである)。

だから、老女は頭から飛び込んだし、老人は足から落ちたし、最後にいけにえとして焼かれるときに、男性が炎に包まれて叫び声をあげた。のではなかろうか。わからんが。

 

まとめ

非常に突飛だしとっ散らかってしまった(他の疑問はどこに行った?)のだが、今のところは「ミッドサマー」に対してこんなことを考えている。ぶっちゃけ一回観ただけではマジでなんも言えないので、もう一回観たい。しかし、他にも観たい映画があるので、DVDかまーん!早く!

感想にも書いたが、「コミューンの人間が、どのくらいの割合でコミューンのために動いているのか自分のために動いているのかがわかりにくい」ということは、割とこの映画を語るうえで重要な気がする。僕たち(見る側)は、自分たちの常識に照らし合わせて、映画の中の物事を見てしまいがちだが、そうではなく、彼らには彼らなりのロジックがあるということを理解し、そのロジックを知ったうえで観ると、また違った物語が浮かび上がってくるはずである。ただ観るのではなく、色々なことを考えながら観ると、面白いかもしれない。「ミッドサマー」、おすすめです。

 

参考

スカンディナヴィアのキリスト教化 - Wikipedia

ヒッピー - Wikipedia

映画『ミッドサマー』公式サイト 絶賛公開中 の完全解析ページ

 人のツイッタ