頭の中身が知りたくて~男子大学生が考えていること~

男子大学生である私が普段どんなことを考えているのかを可視化して面白おかしくブログにしています。

英語に対する呪詛と明智光秀に対する恨みとアイヌ語への思い

この記事はキャンペーンのやつです。お題は「わたしと英語」

 

この記事のお題になっている「わたしと英語」

他の人がどのようなことを書いているのか、ちらっとだけだが見てみた。すると、案の定、英語に対するポジティブなことばかりが書かれていて、そういった記事ばかりが乱立していた。

 

くそしょーもない。

 

僕はそんな誰でも書いているようなものは書かない。なぜなら誰でも書ける内容を書くことはくそしょーもないと僕は心から思っているからだ。

 

なので、今回は英語に対する恨みつらみを呪詛のようにまき散らしていきたいと思う。某ウイルスをまき散らすんじゃないから、そこらへんは感謝しろよな?

 

僕が小学校の時である。社会の時間、歴史を教えていた先生が、まゆつばモノのこんな話をしてくれた。

 

明智光秀本能寺の変織田信長を殺していなかったら、世界の共通言語は日本語になっていた可能性があったんだって」

 

そんな先生の言葉を聞いた僕たち6-1のクラスメイトは大騒ぎである。

 

明智4ね!お前のせいで英語が共通語じゃん!」「明智とかいうやつマジで頃す!日本語が共通語になる世界を潰したのは万死に値する!」「私たちの信長さまを返してよ!」etcetc……

 

思ったより反応が良かったせいか、先生は僕たちの反応に困惑しながらも「織田信長明智光秀も、もう死んでるからしょうがないでしょ」と言い、僕たちを諫めた。

 

社会の授業が終わっても、僕たちの明智光秀に対する怒りは収まっていなかった。

 

僕たちの時には、もうすでに「英語」という教科が、五・六年生から学校教育の一環として入ってきていた。なので、僕たちはいかに英語が難しい言語であるかということを知っており、そんなものを今後学んでいかなければいけないという不安感と得も言われぬ焦燥感を身体に住まわせていた。

 

そんな中、明智光秀が「英語を学ばなくても良い世界」を僕たちのあずかり知らぬところで消していたということを知ったため、なかなかみんなの怒りは消えなかった。正確には、給食の時間までは怒りを抱えていた。

 

その後、中学校に進学した僕は、一億三千万人も母国語話者がいる日本語や、十億人以上も母国語話者がいる中国語が世界共通語ではなく、三億人程度しか母国語話者がいない英語が世界共通語面しているのが気に食わなかったので、英語の成績はひどいものだった。

 

高校に入った後は、大学受験で困らないようにするために英語を勉強したが、好きに離れなかった。というか、あんな授業で英語が好きになる人間がいたら、ソイツの頭の中を見せてほしい。僕が上手に頭かち割ってやるからさ。

 

大学に入学した後も地獄だった。僕が入学した学部は男子よりも女子の方が多い学部だった。その学部の女子たちは英語できます系で海外留学しちゃいます系女子だったので、マジでつらかった。あと、英語を使うことは出来るが、日本語で論理的に話を組み立てることができないやつが多いので、英語より先にやらないといけないことがあるんじゃないの?と思っていた(これは今でも思っているが)。

また、僕の学部はTOEICの点数をある程度取らなければ卒業させてくれないのも最悪である。

 

だいたい、英語を第二言語として習得するのって、「英語という言語を多くの人が用いている」ことによって発生する高い経済価値のみを見た結果起きていることだと思う。

 

この世界で話されている言葉はだいたい7,000程だと言われている。そんな言語たちに優劣はないはずである。しかしながら、「経済的に価値が高い」英語が世界共通語を名乗っているのは、僕としてはいささか不満である。また、「経済的価値が高いから」という理由だけで英語を勉強する輩に対しても、僕は不満を抱いている。英語が多くの非ネイティブに学ばれている一方で、だんだんだんだんと使われなくなっていき、今では消えそうになってしまっている言語というのが存在している。にもかかわらず、ただ「経済的価値が高い」という理由だけで英語を学習している奴の多くは、こういった事実を知らないのである。こういった事実を知らない連中は、いくら英語を勉強したって、単語だけで完結するような中身の極めて薄い、まるでサガミオリジナルのような会話しかできないのだ。そんな奴らのために、文化的な価値が等しく高いが、使用者が少ない言語たちが地球上から消えていくのが不憫でならない。

 

例えば系統的独立語であるアイヌ語は、アイヌの人口は十万人ほどなのだが、話者が五人ほどしかいない。これは、日本の文化の多様性という観点から見ても危機的状況である。

 

言語は記号であると同時に音でもあるので、話者がいなくなってしまっては、その言語は半分死んだことになってしまう(なので、方言を研究している人たちは、一生懸命正確に方言を録音したり書き起こそうとしている)。

 

アイヌ語は今、まさに半分死にかけている状況なのだ(ちなみに話者が五人ほどしかいない言語はこの世界ではほとんどなく、アイヌ語より少ない話者を持つ言語は今のところないとされている)。

 

本当に英語は必要なのだろうか?文化的に生きる我々が、英語を習得する代わりに日本の文化の一つを消滅させても良いのだろうか?

 

私たちが本当に学ばなければいけないのは、誰もが使える言語ではなく、話者数の少ない言語なのかもしれない。そう思った。

アルク #トーキングマラソン 特別お題キャンペーン「わたしと英語」

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